だいぶ前のことになるが、現在とこれからの私と演劇とのかかわりを綴るうえでの一区切りになるのと思うので、記しておく。
3月22日、舞台セミナー2010の閉講式があった。
私がこの5年間受講生として参加し、事業自体は12年続いたこのセミナーの、これが本当に最後の閉講式。
最初は、はじめの1年はキャストコースで、その次はスタッフコースに…と思いながらも、結局は5年間役者を続けた。
今年度は小中学生もいっしょにお芝居をした。
実は最初は、仕事を離れた趣味の場でまで子どもと接することに抵抗があったのだけれど、「お芝居が好き」という気持ちは同じ。だんだんふつうに仲良くできるようになっていった。
みんな素直でいい子たちで、いまどきの小中学生も捨てたもんじゃないな、と思えたし、本番に向けての瞬発力というか、直前まで「だいじょうぶ?!」とヒヤヒヤさせつつ、本番では今までで最高のお芝居ができちゃうあたり、子どもの可能性を再認識したりもした。
それから、子どもの「演劇やってみたい!」という思いを受け止めて、こういう事業への参加を勧めたり許可したり、送り迎えなどの協力を惜しまない保護者の人たちの存在を知ったのもうれしかった。
みんなこういう子どもや保護者ばっかりだったらいいのに…とか思ったりして(笑)。
5年間このセミナーに参加できたことは、私の人生においてものすごく貴重な経験となった。
お世話になったみなさま、ありがとうございました。
これからもお世話になる方々、どうぞ今後ともよろしくお願いします。
2011年3月22日火曜日
2011年3月20日日曜日
flat stanley Germany
先日、見慣れないアドレスからメールが届いた。件名は”flat stanley Germany”。
だいぶ前に、Flat Stanley Projectという交流プログラムで一度だけ手紙のやりとりをした、ドイツの学校の先生からだった。
日本の地震のニュースを聞いて、生徒たちみんなが無事を祈っている。遠く離れていて何もできないけれど、私たちがかつての幸せな交流を憶えていることを知っていてくれることが救いになれば、という内容だった。
何年も前の、たった一度の交流を憶えていて、思いを寄せてくれている人たちがいることに、涙が出た。
きっとそのクラスの子たちにとっていちばん近い「日本」は直接手紙をやりとりした私たちで、だからこの災害を知ってまっさきに思い出し気遣ってくれたのだろう。
ほんの小さなつながりでも、人の心に残り続けるのだということ。
そして、そんなつながりに救われることもあるのだということを感じたできごとだった。
だいぶ前に、Flat Stanley Projectという交流プログラムで一度だけ手紙のやりとりをした、ドイツの学校の先生からだった。
日本の地震のニュースを聞いて、生徒たちみんなが無事を祈っている。遠く離れていて何もできないけれど、私たちがかつての幸せな交流を憶えていることを知っていてくれることが救いになれば、という内容だった。
何年も前の、たった一度の交流を憶えていて、思いを寄せてくれている人たちがいることに、涙が出た。
きっとそのクラスの子たちにとっていちばん近い「日本」は直接手紙をやりとりした私たちで、だからこの災害を知ってまっさきに思い出し気遣ってくれたのだろう。
ほんの小さなつながりでも、人の心に残り続けるのだということ。
そして、そんなつながりに救われることもあるのだということを感じたできごとだった。
2011年3月19日土曜日
デジタル化進行中 その1
1月に買ったブルーレイレコーダを活用して、古いビデオテープ(主に演劇)のデジタル化をすすめている。
そのうちのいくつか、まずは三谷幸喜作品3本を紹介。
「バイ・マイセルフ」
松本幸四郎と市川染五郎のふたり芝居。
伝説の老俳優と、彼の自伝のゴーストライターのお話。老俳優が人生を語る中で、ライターとの間になんとなく親子めいた絆が生まれてくるのが、「父と息子萌え」の私にはかなりツボ。しかも役者ふたりはリアル親子。
「彦馬がゆく」
幕末の江戸を舞台に、写真館に集う人たちを描いたお話。
歴史上の有名人たちも登場するのだけれど、どれも珍解釈な人物像なのが面白い。
主人公の写真師神田彦馬が写真を撮るときに言う、「人生でもっとも愉快だったときのことを思い出してください」っていうせりふが好き。
「You Are The Top 今宵の君」
事故で亡くなった女性歌手の追悼コンサートで歌う曲を書くために再会した、かつて黄金のコンビと言われた作詞家と作曲家。ともに曲を作るうちに、ともに愛した女性歌手との思い出がよみがえる。
上演時、主演のひとり鹿賀丈史が初日を目前に病気で降板したことも話題になった。
作詞家役の市村正親さんはさすが。軽妙ながら、せりふに重みがある。急遽代役となった作曲家役の浅野和之さんも、シニカルで人間関係に不器用な感じがいい。ふたりの思い出の中にいる女、戸田恵子さんもすてき。
まだまだ、山ほどあるビデオテープ。お金のかからない娯楽はしばらく続く。
そのうちのいくつか、まずは三谷幸喜作品3本を紹介。
「バイ・マイセルフ」
松本幸四郎と市川染五郎のふたり芝居。
伝説の老俳優と、彼の自伝のゴーストライターのお話。老俳優が人生を語る中で、ライターとの間になんとなく親子めいた絆が生まれてくるのが、「父と息子萌え」の私にはかなりツボ。しかも役者ふたりはリアル親子。
「彦馬がゆく」
幕末の江戸を舞台に、写真館に集う人たちを描いたお話。
歴史上の有名人たちも登場するのだけれど、どれも珍解釈な人物像なのが面白い。
主人公の写真師神田彦馬が写真を撮るときに言う、「人生でもっとも愉快だったときのことを思い出してください」っていうせりふが好き。
「You Are The Top 今宵の君」
事故で亡くなった女性歌手の追悼コンサートで歌う曲を書くために再会した、かつて黄金のコンビと言われた作詞家と作曲家。ともに曲を作るうちに、ともに愛した女性歌手との思い出がよみがえる。
上演時、主演のひとり鹿賀丈史が初日を目前に病気で降板したことも話題になった。
作詞家役の市村正親さんはさすが。軽妙ながら、せりふに重みがある。急遽代役となった作曲家役の浅野和之さんも、シニカルで人間関係に不器用な感じがいい。ふたりの思い出の中にいる女、戸田恵子さんもすてき。
まだまだ、山ほどあるビデオテープ。お金のかからない娯楽はしばらく続く。
2011年3月17日木曜日
大震災で思うこと
3月11日のその瞬間は職員室にいた。
海沿いの町なので(学校は高台だけれど)、津波の情報を得るためすぐにテレビをつける。
しばらくようすを見ていたが、揺れもおさまったためとりあえず生徒はふつうに下校させることに。
「怖かったね」「まだふらふらする」とか話しながら掃除。体育館が卒業式の会場設営されていたため、多くの部が活動がなく、ほとんどの生徒が下校。
そうこうしているうちにテレビには東北地方の惨状が。
このあたりにも大津波警報が出て、駐車場に非難してきた車も。
全校生徒の安否を確認するようにとの指示。固定電話の回線は公衆電話を入れても5本しかないので、個人のケータイを使うが、ぜんぜんつながらない。
結局、沿岸部の住民が一時避難したり、町内の海沿いの国道の一部が翌日の夕方まで通行止めになったくらいで、ありがたいことに大きな被害はなかった。
ケータイがしばらくつながりにくかったのは不便だったけれど、そんなことに不満は言っていられない。
知り合いにも特に大きな被害は聞いていない。
前に勤めていたところ今のところも海沿いで、漁業のおうちが多かったので、船だいじょうぶだったかな、とか、ホタテにはかなり被害があるみたいで大変だな、とか心配ではあるけれど。
津波の被害や原発の事故など、目を覆うような光景が連日報道されている。
自分は何をしたらいいんだろう、ともどかしさを感じる中、北海道新聞に掲載されたある記事を読んだ。
精神科医の香山リカによる一文。
まずは「私は、大丈夫」と自分を安心させてあげること。
被災者の方々に申し訳ないと感じてしまうかもしれない。けれど、これから日本中が支え合い励ましあって立ち直らなければならない。「あなたの力が必要」と言われるその日に備え、まずすべきは自分で自分を守ること。そうできる人は、ゆっくりと体を休め、食事をきちんと取り、お風呂に入って体をあたためる。そうやって自分を維持することが、直接被災していない人の義務である、という内容。
今自分がふつうに生活できていることに感謝して、一日一日を大切に過ごそうと思う。
海沿いの町なので(学校は高台だけれど)、津波の情報を得るためすぐにテレビをつける。
しばらくようすを見ていたが、揺れもおさまったためとりあえず生徒はふつうに下校させることに。
「怖かったね」「まだふらふらする」とか話しながら掃除。体育館が卒業式の会場設営されていたため、多くの部が活動がなく、ほとんどの生徒が下校。
そうこうしているうちにテレビには東北地方の惨状が。
このあたりにも大津波警報が出て、駐車場に非難してきた車も。
全校生徒の安否を確認するようにとの指示。固定電話の回線は公衆電話を入れても5本しかないので、個人のケータイを使うが、ぜんぜんつながらない。
結局、沿岸部の住民が一時避難したり、町内の海沿いの国道の一部が翌日の夕方まで通行止めになったくらいで、ありがたいことに大きな被害はなかった。
ケータイがしばらくつながりにくかったのは不便だったけれど、そんなことに不満は言っていられない。
知り合いにも特に大きな被害は聞いていない。
前に勤めていたところ今のところも海沿いで、漁業のおうちが多かったので、船だいじょうぶだったかな、とか、ホタテにはかなり被害があるみたいで大変だな、とか心配ではあるけれど。
津波の被害や原発の事故など、目を覆うような光景が連日報道されている。
自分は何をしたらいいんだろう、ともどかしさを感じる中、北海道新聞に掲載されたある記事を読んだ。
精神科医の香山リカによる一文。
まずは「私は、大丈夫」と自分を安心させてあげること。
被災者の方々に申し訳ないと感じてしまうかもしれない。けれど、これから日本中が支え合い励ましあって立ち直らなければならない。「あなたの力が必要」と言われるその日に備え、まずすべきは自分で自分を守ること。そうできる人は、ゆっくりと体を休め、食事をきちんと取り、お風呂に入って体をあたためる。そうやって自分を維持することが、直接被災していない人の義務である、という内容。
今自分がふつうに生活できていることに感謝して、一日一日を大切に過ごそうと思う。
2011年3月16日水曜日
健康の話~胃超音波内視鏡検査
ことの起こりは昨年夏。
7月に受けた人間ドックの結果が、私がカナダ研修で家を空けている間に届いた。
教員住宅の掃除やら換気をしに来てくれた際に、それを勝手に見た母。その中に「胃粘膜下腫瘍の疑い。要精検。」の文字を見つけパニックに。
帰国するやいなや、必要以上に深刻なようすで「早く病院行きなさい!」と言われる。
せっかく充実した研修を終えた直後にそんなことで、しかも「なんで人の検診結果を勝手に見るのよ!!」と怒る私。大人になって初くらいの大喧嘩。
すぐに再検査の予約をしたけど、取れたのは2週間以上あと。
9月初めに人生初の胃カメラ。
けっこう苦しかったけれど、「上手ですよ」とほめられつつ無事検査終了。
結果は、粘膜の下に1.5cmくらいの腫瘍があるとのこと。粘膜の下なので、くわしいことは切ってみないとわからない。このままの大きさなら問題ないので、とりあえず様子を見て、半年後に超音波内視鏡検査をしてみましょう、とのことに。
で、半年後。
3月15日に検査の説明と日程調整のために診察に。
診察室に入ったとたんドクター曰く、「なんか変なのできてたんでしたね」。変なのって…。
運よく翌日すぐ検査ができることに。しかしながら、ふつうの内視鏡より管が太く、検査の時間も長いため鎮静剤を使うので、その日1日車の運転はできないとのこと。
翌日検査できるとは思わず泊まる準備をしていなかったので、とりあえず一度勤務地の住宅に帰宅。
翌日休みをとり、朝実家に車を置いて父に送ってもらって病院へ。
まず鎮静剤の点滴。その後はふつうの胃カメラと同じくのどにゼリーとスプレーの麻酔。
そしていよいよ検査。これがふつうの胃カメラとは比べ物にならないくらい苦しい!
2人がかりで押さえられながら、体の向きいろいろ変えながら胃の中を見る。
検査後ベッドで1時間くらい寝かされてから、結果を聞く。
見づらい位置だったらしく、あんまり上手くいかなかったようすだが、どうやら腫瘍の中身は水らしいとのこと。他の臓器にはよくあるけれど、胃にできるのはめずらしいそうだ。
この大きさなら特に問題はないので、また1年後に検査しましょうということに。次はふつうの胃カメラでいいって。
父に迎えに来てもらって実家に帰宅。昼食後は鎮静剤と検査の疲れからか夕食まで爆睡。
この日は実家に泊まった。
めちゃくちゃ苦しかったけど、とりあえずなんともなくて良かった。
それに、被災地では必要な医療も受けられない人たちがいるなか、特に緊急でもなく、生命にかかわるほどでもない検査をふつうに受けられることに感謝。
ちょっとくらい検査が苦しくても、文句は言えないなと思った。
7月に受けた人間ドックの結果が、私がカナダ研修で家を空けている間に届いた。
教員住宅の掃除やら換気をしに来てくれた際に、それを勝手に見た母。その中に「胃粘膜下腫瘍の疑い。要精検。」の文字を見つけパニックに。
帰国するやいなや、必要以上に深刻なようすで「早く病院行きなさい!」と言われる。
せっかく充実した研修を終えた直後にそんなことで、しかも「なんで人の検診結果を勝手に見るのよ!!」と怒る私。大人になって初くらいの大喧嘩。
すぐに再検査の予約をしたけど、取れたのは2週間以上あと。
9月初めに人生初の胃カメラ。
けっこう苦しかったけれど、「上手ですよ」とほめられつつ無事検査終了。
結果は、粘膜の下に1.5cmくらいの腫瘍があるとのこと。粘膜の下なので、くわしいことは切ってみないとわからない。このままの大きさなら問題ないので、とりあえず様子を見て、半年後に超音波内視鏡検査をしてみましょう、とのことに。
で、半年後。
3月15日に検査の説明と日程調整のために診察に。
診察室に入ったとたんドクター曰く、「なんか変なのできてたんでしたね」。変なのって…。
運よく翌日すぐ検査ができることに。しかしながら、ふつうの内視鏡より管が太く、検査の時間も長いため鎮静剤を使うので、その日1日車の運転はできないとのこと。
翌日検査できるとは思わず泊まる準備をしていなかったので、とりあえず一度勤務地の住宅に帰宅。
翌日休みをとり、朝実家に車を置いて父に送ってもらって病院へ。
まず鎮静剤の点滴。その後はふつうの胃カメラと同じくのどにゼリーとスプレーの麻酔。
そしていよいよ検査。これがふつうの胃カメラとは比べ物にならないくらい苦しい!
2人がかりで押さえられながら、体の向きいろいろ変えながら胃の中を見る。
検査後ベッドで1時間くらい寝かされてから、結果を聞く。
見づらい位置だったらしく、あんまり上手くいかなかったようすだが、どうやら腫瘍の中身は水らしいとのこと。他の臓器にはよくあるけれど、胃にできるのはめずらしいそうだ。
この大きさなら特に問題はないので、また1年後に検査しましょうということに。次はふつうの胃カメラでいいって。
父に迎えに来てもらって実家に帰宅。昼食後は鎮静剤と検査の疲れからか夕食まで爆睡。
この日は実家に泊まった。
めちゃくちゃ苦しかったけど、とりあえずなんともなくて良かった。
それに、被災地では必要な医療も受けられない人たちがいるなか、特に緊急でもなく、生命にかかわるほどでもない検査をふつうに受けられることに感謝。
ちょっとくらい検査が苦しくても、文句は言えないなと思った。
2011年3月6日日曜日
女優への道5~『さらっていってよピーターパン』千秋楽
9:00集合。ストレッチと発声。
10:00すぎから今日もゲネプロ。今回は一部の配役がダブルキャストなので。
その後軽食、メイク。
16:00開演。
今回は特に失敗もなく、せいいっぱいできたと思う。
カーテンコールのダンスはしみじみと、かつ楽しく踊れた。
そして打ち上げ!
一次会は芸術ホールのギャラリーで。
そして二次会は大人限定でカラオケへ。一次会はアルコールがまんしたので、ビールが美味しかった。8名ほどで、各自好き勝手にマニアックな曲を歌いまくる。やっぱり演劇やろうと思う人たちって変わった人多いかも。
とにかく無事に終わってよかった。
写真はキャストのひとりのお母様からの差し入れ。手づくりケーキ。すてき。
2011年3月5日土曜日
女優への道5~『さらっていってよピーターパン』初日
9:15ころ楽屋入り。
10:00からウォームアップとダンス。
11:00過ぎから抜き稽古。
その後、軽食・メイク。
13:00からゲネプロ。
その後の返し稽古は私のところはほとんどなかったので、メイクのつづき。
ミセスのパーティメイクなので、やや華やかに、ふつうに綺麗なお化粧。かなりバサバサのつけまつげを着用。
夕食のお弁当をいただいて、いよいよ18:30開演。
今回久しぶりに着替えがあるので緊張。
2回目の出番で、ハケる袖を間違えた! でもそれ以外はつつがなく終了。
明日もうまくいきますように。
写真は叔母からいただいたお花。
2011年3月4日金曜日
女優への道5~卒業公演間近その2
函館舞台塾2010舞台セミナー、今回の卒業公演は『さらっていってよピーターパン』。
一昨年・昨年につづき、別役実の作品。
今年度からジュニアコースの小学校4年生からの子どもたちも加わってにぎやか。
年をとってみすぼらしくなり、冒険に消極的になってしまったピーターパンを、子どもたちがけしかけて(?)ネバーランドにさらっていってもらうお話。
私の役はウェンディたち3兄弟の母。
卒業公演直前の週はこんなかんじでした。
2月28日(月)
児童館でお芝居の稽古。
3月1日(火)
ダンスの先生のスタジオで練習。
3月2日(水)、3日(木)は貴重なお休み。
3月4日(金)
仕込みのお手伝いをしようと、張り切って朝から休みをとった。
しかしタイミングが合わず、手伝ったのはリノのテープ貼りくらい。
あとは衣装の細かい仕上げ。
写真は合間にこっそり撮った海賊船のセット。今までになく大掛かりな装置。
午後一度実家に帰宅し、夕方ふたたび芸術ホールへ。
夜は通し稽古。
例年になくいろんなことがギリギリでかなりドキドキだけれど、楽しい公演になりますように。
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